【ヨルシカ/春ひさぎ】歌詞とMVから意味を解釈・考察してみた
じめじめとした梅雨の時期がやってまいりましたが、皆さんはいかがお過ごしでしょうか?雨だとなんかやる気でないなぁ…なんて日も多いですよね。私はそんなときにひたすら音楽をかけて気分を上げてます!音楽の力ってすごいなあ、なんてチープな感想を述べたところで、本日は、最近ハマっている“ヨルシカ”の「春ひさぎ」という曲の紹介と考察をしていきたいと思います!
ヨルシカ『春ひさぎ』の概要
6月3日にYouTubeにて配信スタートされたヨルシカの『春ひさぎ』は、7月29日にリリースされるヨルシカの3rdアルバム『盗作』に入っている曲です。
このアルバムの特設サイトによると、
今作は「音楽の盗作をする男」を主人公とした男の“破壊衝動”を形にした楽曲全14曲を収録。
とあり、音楽活動においてタブーといえる盗作をテーマにした興味深く、奥深い作品となっていることが期待されます。その中でも、『春ひさぎ』は、アルバムの核となる楽曲になっているのではないかと思うような、少し不気味な曲調と意味深な歌詞であるように思います。特に、ヨルシカの『花に亡霊』などと比べると、かなりダークサイドな曲に仕上がっており、少し気味悪さを感じるものの、なぜか癖になり何度も聞いてしまいます。
♪アルバム『盗作』の特設サイトはこちら↓
ヨルシカ『春ひさぎ』を考察
まずはぜひ聞いてみてね↓
“春ひさぎ”の意味
まず、題名の“春ひさぎ”の意味については、YouTubeの概要欄にこうあります。
春をひさぐ、は売春の隠語である。
つまり、“鬻ぐ(ひさぐ)”というのは、“売る”という意味なので、春を鬻ぐ(ひさぐ)で“売春”という意味になります。題名からダークな匂いがプンプンしますね…。
YouTubeの概要欄には、さらに、
それは、ここでは「商売としての音楽」のメタファーとして機能する。
こう書かれており、おそらく、音楽を売って生活している歌手や作曲家のことを指していると思われます。
YouTubeの概要欄から分かるストーリー
俺は泥棒である。
往古来今、多様な泥棒が居るが、俺は奴等とは少し違う。
金を盗むわけでは無い。骨董品宝石その他価値ある美術の類にも、とんと興味が無い。
俺は、音を盗む泥棒である。
春をひさぐ、は売春の隠語である。それは、ここでは「商売としての音楽」のメタファーとして機能する。
悲しいことだと思わないか。現実の売春よりもっと馬鹿らしい。俺たちは生活の為にプライドを削り、大衆に寄せてテーマを選び、ポップなメロディを模索する。綺麗に言語化されたわかりやすい作品を作る。音楽という形にアウトプットした自分自身を、こうして君たちに安売りしている。
俺はそれを春ひさぎと呼ぶ。
ミュージックビデオでは、不気味な影のような人が出てくるのですが、おそらくそいつが「音を盗む泥棒」なのではないかと思います。その“泥棒”は、音楽を作り出す人の中に住んでいる人格のようなものだと考えると分かりやすいかもしれません。そしてその泥棒は、美しい音に目が無いのです。作曲家なんて、特に美しい音に目が無いのではないか、と考えられ、音楽を作る人の中にこの”泥棒”はいるのかもしれません。
さらに面白いのは、この泥棒が言っていると思われる、「音楽という形にアウトプットした自分自身を、こうして君たちに安売りしている。」という文章。美しく、綺麗な音を欲しており、それに異常な価値を見出しているにもかかわらず、大衆受けする音楽を“安売り”している、という皮肉の効いた文章であり、音楽家の葛藤と本音が垣間見えるような気がします。
こんなにしっかり概要欄に物語があるということは、それだけメッセージ性の高い曲なんだろうなあ、ということが伝わってきます。
MVと歌詞からじっくり考察
イントロ
まず、MVの0:04の、黒い人が歩いている場面には、以下のモノが出てきます。
・リンゴ
・蛇注意の看板
・薔薇
・毒々しい色のキノコ
じつはこのMVには、たびたび“リンゴ”が登場しています。そんなにリンゴ登場させられたらなんかあるんかなって思うやん・・・ていうくらい。(笑)
まず、リンゴと蛇を見た瞬間に“アダムとイブ”の話が頭をよぎりました。つまり、リンゴは、“禁断の実”であり、何かしらを授けてくれる(この場合だと音楽とかインスピレーションとかかな)というメタファーとして使われている可能性があるなあと思いました。 そして、アダムとイブの話では、“蛇がリンゴを食べるようにそそのかしてくる"というエピソードから、蛇は欲求や欲望を表しているのかもしれません。さらに、その蛇に注意してください、という看板が立っていることから、大衆受けする音楽=“似通っていて、コピーされたような音楽”を作りたくなる欲求への警告にも捉えられます。
さらに、薔薇の花や、毒々しい色のキノコが描かれているところから、魅力的に見える(大衆受けする綺麗な音楽)ものには、棘があったり、毒があったりする(盗作もしくは自分の意志と反した音楽)ということを表現しているようにも見えます。そのような危険な欲望にあふれた道を歩いている場面からスタートしており、まさに、音楽家自身もそのような状況の中で活動しているという意味にも捉えられます。
「売れる音楽」「食べていくための音楽」を作ることへの葛藤が描かれているように感じました。
1番
大丈夫だよ大丈夫
寝てれば何とかなるし
どうしたんだいそんな顔してさぁ
別にどうともないよ
駅前で愛を待ち惚け
他にすることもないし
不誠実の価値も教えてほしいわ
ー作詞:n-buna
さて、泥棒が主人公とされるこの曲の初めの歌詞では、“大丈夫だよ大丈夫”と始まり、“どうしたんだいそんな顔してさぁ”といわれていることから、ひどく顔色が悪いことが分かります。ただ体調が悪いなんてものではなく、おそらく、売れる音楽を盗むことへの罪悪感や後ろめたさからくるものではないでしょうか。もしくは、大丈夫と自分に言い聞かせることで、売れる音楽を盗んで作ることへの罪悪感を取っ払おうとしているとも考えられますね。
“駅前で愛を待ち惚け”は売春(春ひさぎ)とリンクさせた表現ですね。そしてこの場面でリンゴを食べる映像があることから、音楽を盗んでいると考えられます。それに対して、“不誠実”といっているのではないでしょうか。つまり、生活するために身を削って(自分の音楽を殺してまで)音楽を盗んでいて、その行為は“不誠実”なものであるけれど、“不誠実”という基準(売れる音楽を作っているのに)とは一体何なのだろうという葛藤が見えます。
サビ
言勿れ 愛など忘れておくんなまし
苦しい事だって何でも教えておくれ
左様な蜻蛉の一つが善いなら忘れた方が増し
詮の無い事ばかり聞いてられないわ
言いたくないわ
ー作詞:n-buna
この、“言勿れ”ですが、普通、“ことなかれ”は、“事勿れ”と使うのが一般的です。この場合、“事勿れ”と“言う勿れ”の二つを合わせているように見えます。“事勿れ”とは、「平穏に済まそうとすること」という意味であり、“言う勿れ”とは、「言ってはいけない」という意味です。このことから、“誰もが好む音楽を売る”(=平穏に済まそうとする)のに邪魔になる売れない“愛”なんて忘れてくれ、言わないでくれ、そして言いづらいような“苦しい事だって何でも教えておくれ”とあります。つまり、自身が本当に作りたい音楽ではなく、大衆受けする音楽を作るしかないという意味に思います。
“左様な蜻蛉の一つが善いなら忘れた方が増し”=そのようなすぐ死んでしまう蜻蛉のような存在(陽炎ともかけている)を良いものとするなら、そんな存在は忘れたほうが良い。つまり、周りから見ればすぐ消えてしまうような不確かな自分の感情や思い出を歌うくらいならば、そんな思い出話の音楽など作らないほうがいいから、“愛”や“思い”なんて忘れた方が良いということではないかと思います。そして、“詮の無い事”=無益なことという意味なので、無益な音楽(売れない音楽)ばかり聴いていられないし、そんな音楽ばかり歌っていられない、という意味に思います。
MVでも、すべてを飲み込んでいるので、売れる音楽を盗んでいる描写のように感じます。
ここまでは、“大衆受けの売れる音楽”を作らなければならないという感情が先行した歌詞になっていますね。
2番
大丈夫どれだけ吐いても
言葉は言い足りないし
どうしたんだいあんたにわかるかい
この憂いが
玄関で愛を待ち惚け
囁く声で喘いで
後悔の悔を教えてほしいわ
ー作詞:n-buna
2番では、“大丈夫どれだけ吐いても言葉は言い足りないし”と言っていることから、自分自身が音楽で表現したい本音をどれだけ歌にしても言い足りない、伝えきれないということではないでしょうか。そんな伝えきれない悲しみなんて、あんた=視聴者にはわかりきらないだろうといっている気がします。
“玄関で愛を待ち惚け”と、1番では“駅前”だったものが、“玄関”になっていることから、より身近な距離の近いもの=自分の本音に近い音楽を作ろうとしていることが伺えます。さらに、“後悔の悔を教えてほしい”というのは、自分の作りたいものを音楽にして発信することが後悔につながるというのなら教えてくれ、という少し挑発的な意味に思います。
さらに、2番の最初に、キーボードを食べて苦しむ姿が描かれていることからも、盗んだ音楽に対して気持ち悪さを感じていると考えられます。
サビ
陽炎や 今日などどうか忘れておくんなまし
悲しい事無しの愛だけ歌っておくれ
終いは口付け一つが善いのも言わない方が増し
詮の無い事でも忘れられないわ
知りたくないわ
ー作詞:n-buna
2番のサビでは、1番と違って、“悲しい事無しの愛だけ歌っておくれ”や“終いは口付け一つが善いのも言わない方が増し”と言っていることから、大衆受けの音楽にありがちな、“悲しい事”=ストーリー性を求めるエピソードや、“終いは口付け”=ハッピーエンドで終わる物語などは語らなくたっていいということだと思いました。そして、そのような作られていない、自身の本音を歌にしたもの(詮の無い事)だとしても、自分にとっては忘れられないことだといっており、さらに重ねて、忘れたくないくらい自身にとって大切なことであるという事実を知りたくない(=知ってしまったら、大衆受けする音楽だけを作るなんてできないから)と葛藤しているように思います。
さらに、MVでも、1番ではリンゴや薔薇の咲いた道を歩いていた主人公が、2番では都会(しかも赤信号の道)を歩いていることから、自分の気持ちを押し殺して作った売れる音楽を作る道(欲望や誘惑や罪悪感の道)を抜けて、自分の本当にやりたいことを表現した音楽を作る道(売れなくて生活できなくなるかもしれないという危険の伴う道)を歩き始めていることが分かります。
ラストサビ
陽炎や 今日などいつか忘れてしまうのでしょう?苦しいの
左様な躊躇いの一つが愛なら知らない方が増し
詮の無いことだって聞かせてもっと
言勿れ 明日など忘れておくんなまし
苦しい事だって何度も教えておくれ
無粋な蜻蛉の一つでいいから、溺れるほどに欲しい
詮の無いことだって聞かせてもっと
愛して欲しいわ
ー作詞:n-buna
ラストでは、作者の本音が良く見えてきます。特に、“躊躇いの一つが愛なら知らない方が増し”という歌詞から、売れるから書こうとしているような偽物の“愛”なんて知らない方がいいし、“詮の無いこと”=無益だけど自身が思ったことをもっと音楽にしたい、と言っています。
そして、“明日など忘れておくんなまし”というのは、おそらく、明日も食べていけるか、生活していけるか、など考えなくていいということだと思います。つまり、生活するための音楽を作りたいわけじゃないという作者の本音ではないでしょうか。
さらに、“溺れるほどに欲しい”という表現から、大衆受けしない経験でも、感情でも、何であっても、自分が歌にしたくなる刺激が欲しいし、そういうものを音にしたい。そして、そんなアーティストのことを“愛して欲しい”と言っているのではないでしょうか。
MVでは、最後、すべてを飲み込んだ主人公(売れる音楽も、自分の好きな音楽も作る主人公)の奏でる音楽を、アーティストの葛藤など知らない視聴者が好き勝手に音楽を聴いているという皮肉の効いた映像になっていますね。
まとめ
“売れる音楽”と“作りたい音楽”についてのアーティストならではといえる葛藤を歌にした、少しダークであり、皮肉や本音も入り混じった曲だなと思いました。まさに、『春ひさぎ』のような音楽が”作りたい音楽”とも捉えられ、歌詞や映像だけでなく、曲全体で作りたい音楽を表現した秀逸な作品だと思いました。
ぜひ考察をもとに映像を見てみてください!私個人の解釈なので、見聞きする人によって違う発見があると思います!比べてみると面白いかもですね。もしくは、アーティスト寄りの解釈ではなく売春寄りの解釈で考察してみても面白そうだなあ♪